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阪神・淡路大震災を振り返って に参加中!
ちょうど阪神淡路大震災が起こった時、
12月に初めての子どもを出産したばかりの私は、
24時間不規則なリズムで、子どもに母乳を与えながらも
幸せを満喫していました。

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最初に地震の揺れを感じた時は、すぐにこれが地震だとは
気付かず、慌てふためく主人を寝ぼけ眼で追いかけるだけ。
しかしすぐさま、それは体験した事もない、想像した事も
ないくらいの大地震であることは、ベッドの上にいても
安易にわかるほどで、それは自分が今まで横になっていたベッドが、まるで遊園地のコーヒーカップのように回転しているようでした。直ぐに眠っている娘を強く抱きしめ、震えるばかり。

その間、実父から「大丈夫か」「うん」の電話があったきり
それ以降は電話すらつながることはなく、家の中にある
リビングの椅子が次々倒れ、食器棚の中では皿が割れる音。

主人は玄関の扉だけを開け、非常口を確保。

当時、大型マンションの13階に住んでいた私たちは、
マンションが根元から大きく回転していることもわかりました。

時間が経つに連れて、電話はもちろん、電気も止まり
リビングには、壊れた椅子、割れ朽ちた間接照明のランプ
そして、ランプを飾っていたアンティークの華奢なテーブルが
無惨な姿に・・・。私は子どもを抱きしめたまま、ベッドから降りる事すらできず、荒れ果てた家の中を呆然と眺めるだけ。

しかし、これは震源地にはほどとおい大阪梅田での出来事。

時間が経ち、世が明けて、電気が復旧。
その時目に飛び込んで来たのが、あの断絶された阪神高速。
神戸、いや大阪、いや地球自体が壊れたのだと思いました。

その後、このときの地震の被害が前例のないほど悲惨な
ものであったことを知り、神戸に住む友人に簡易コンロを
届けたり、おにぎりを大量に運んだり。
もちろんあらゆる道路は遮断され、ようやく動いた電車に
乗っての物資の運び込み。その時、電車の窓から見える景色がブルーシートに覆われて見る影もなかったと記憶しています。

そしてこの地震が「阪神淡路大震災」と名付けられ
私にとっても、家族にとっても決して忘れられない震災と
なったのですが、それらは過去の思い出として脳裏に焼きついただけでなく、当時から現在に至るまで、あらゆる地震や揺れに敏感に反応する違う自分を生み出しました。

私の腕の中で何時間もすやすやと寝息をたてていた娘。
今では震災とおなじ15歳に。実際、自分の記憶にはないはずの
娘も、毎年1月17日は「忘れられない日」になっているようです。

実家が崩壊した友達、ピアノまで倒れたという知人、そして
ご主人を亡くした友人。。。あれから15年。
無我夢中で前に進むしか術はなかった人たち…。
それは多くの犠牲とともに開かれた道であったことを決して忘れることはないでしょう。。